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『果てしなき探求 知的自伝』上下
著者:カール・ポパー(岩波現代文庫)

これは、シルプの編纂による『現存哲学者叢書』のポパーに充てた巻に収められた自伝である。この叢書には、他に、アインシュタイン、ホワイトヘッド、サルトルなど、その巻が企画された当時存命であった多くの哲学者が含まれている。ポパーは、非常に幅広い分野について、深い知識と洞察を持った人であって、それは古代ギリシア哲学者の言説の解釈から、歴史学などの社会科学、物理学の量子力学の解釈問題にまで及んでいる。そのポパーが、自己の知的な展開を振り返ってまとめたのが本書である。読者は、ポパーの弛みない知的探求の歩みを目の当たりにする思いになるであろう。(石垣壽郎)


『論理学研究』
著者:E・フッサール(立松弘孝訳) (みすず書房)

フッサールの『論理学研究』を学部の学生に対する「お薦めの一冊」に選ぶなどとは、いくら哲学科の学生相手とはいえいかにも芸がないと思われるかもしれない。自分でもそう思う。したがって、これはお薦めの一冊というより、わたしにとっての思い出の一冊といったほうがよいかもしれない。わたしが学生だった頃、今から40年以上前に、はじめて本格的に格闘した哲学書という点で、わたしにとっては忘れられない本である。現象学に興味を持っている方にはもちろんであるが、言語哲学や意味論に興味を持っている方や、分析哲学に興味を持っている方にも、お薦めの哲学の古典である。言語理解とはどのような構造をもつものなのか、意味とは何か、そして認識とは何か、といった哲学の基本問題を考えるときに、必ず何らかのヒントを与えてくれるはずである。ただし、簡単に、短時間で分かる本を望んでいる方には、残念ながらお薦めとはいえない。なにしろ、わたしの学生時代には、「フッサールは難しい」という言葉が流通しており、難しいからきっと重要なことが書かれているに違いないという興味から多くの無謀な若者が読み始め、そして挫折した著作だからである。(村田純一)


『科学と近代世界』
著者:A・ホワイトヘッド(上田泰治・村上至考訳)(松籟舎)

数学者・論理学者・哲学者として著名で、核兵器や世界平和問題などに関する発言でも知られ、ノーベル文学賞も受けたラッセルの名前なら聞いたことがある、という人は、少なからずいるかと思う。けれども、その数学の先生のホワイトヘッドのことを知る人は少ないだろう。(ホワイトヘッドとラッセルとの大部な共著『プリンキピア・マテマティカ(数学原理)』三巻は論理学史上の記念碑的著作として知られ大きな影響を及ぼした。)
ホワイトヘッドは一九二四年に六三歳でロンドン大学を停年退職し、ハーヴァード大学に招かれて哲学教授となり、沢山の哲学書、文明論、教育論などを著わした。『科学と近代世界』は渡米後の第一作であり、既に出版していた科学哲学三部作(『自然の概念』等)を踏まえ、後に主著『過程と実在』で体系化することになる「有機体の哲学」のアウトラインをも提示している。しかし、この書はやはり、その題名が示すように、まずは、「近代科学がどのようにして誕生し、自然をどのように理解したのか、そして、その結果どのようなことが私たちの世界に生じたのか」を示す、思想の歴史を論じた書物として読むべきであろう。
人類の歴史を振り返るに、重要な時間尺度としてさまざまなものを考えることができる。文字をもちい始めてからの時間、宗教の二千年から二千五百年等。歴史はさまざまな社会と文化を生み出し、その多様性を尊重すべきであることは間違いない。ところで、近代科学の精神というものは、一七世紀という時期に西洋において確立した。それにはどのような理由があったのか。そうして、それはどうして文化の違いを越えて全世界に普及したのか。今日の技術文明を考えれば、近代科学誕生後の四〇〇年というものの重要性は計り知れない。
近代科学とはどのようなものであったのか、批判されるべき点があるとすればどういう点なのか(この点がホワイトヘッドによる有機体の哲学の主張につながる)、人間は科学の他に何を必要としているか、こういった問題を適切な仕方で考えるための材料を、この書物は沢山、与えてくれる。(松永澄夫)


『異邦人』
著者:アルベール・カミュ(1942年刊、窪田啓作訳)(新潮文庫1963年)

ジャンルを問わない多読・濫読の私にとって、哲学科の門を叩いた学生の皆さんに「哲学すること」へのお勧めの一冊を絞り込んで挙げるのは難しい。強いて言えば、学部の一般教養の哲学講義で折に触れとりあげ紹介したカミュの上記著書であろうか。実存主義的人間像と生の不条理性や現代世界の人間の孤独について考える素材として、フランツ・カフカの『変身』(1915年、高橋義孝訳、新潮文庫1952年)とともに触れてきている。「きょうママンが死んだ。」で始まる『異邦人』。主人公ムルソーは、母親とは長らく別々に暮らしていたこともあり母の葬儀といってもさしたる感情もない。淡々と済ませ仕事に戻り、女友達と遊びに出かける、といった普段と変わらない生活を送るなかで、あるとき友人のトラブルに巻き込まれアラブ人を射殺してしまう。小説の第二部は裁判の場面に移る。ここでもムルソーは自らの有罪無罪がかかる裁判でも殺人の動機を問われれば「太陽が眩しかったから」としか答えない。一切の弁解をしない。当然ながら陪審員の心証は悪く有罪死刑が宣告される。母の葬儀に際しての彼の振る舞いや日常生活から彼の人間性や考え方が裁かれるのだ。上訴もせず死刑を受け入れるムルソーにとって最後の希望は、死刑の瞬間に人々の嘲笑罵倒を浴びながら絞首台へのタラップを淡々と登ることにある。『変身』のほうも、これもごく平凡なサラリーマンである主人公グレゴール・ザムザがある朝目覚めたら奇怪な巨大な虫に変身してしまったという寓話である。ザムザの身に起こった不条理な虫への変身についてザムザ自身に思い当たることといったら、妹と両親との生活が彼の稼ぎにもっぱらかかっていて嫌でたまらない仕事も辞めるにも辞められず、ある夜寝る前にふと「家族のためでなかったらもうこんな生活はやめにしたい」と考えたことぐらい。私たちの世界の人間であることの「掟」においては、母を想い家族を支える「よき息子」であることに疲れを覚えてふと漏らした本音によってさえも、人間は異邦人として人間世界からの追放を余儀なくされる。
この人間存在の不条理性、実存的不安の感覚は、いまどきの若者たちをとらえている「生きがたさ」の感覚とも当然ながら繋がっているであろう。最近読んだ本のなかで、乙一『失われる物語』(角川文庫2001年)、ブルックス・スティーヴンス『タトウ・ガール』(講談社文庫2004年)、桜庭一樹『砂糖菓子の弾丸は撃ちぬけない』(角川文庫2009年)筒井康隆『時をかける少女』(角川文庫、アニメ化2010年)なども挙げておきたい。どれも「哲学すること」にとっての深い問いを私たちに差し向けている。(金井淑子)



『哲学の基礎』
著者:山本信(北樹出版〔放送大学教育振興会より1985年にはじめて出版〕)

いまはむかしのこと、哲学というものにはじめて接したころ、神田のさる大きな書店の哲学書のコーナーに出かけていって、入門書の類を漁ったことがありました。すると、あるはあるは、哲学概説、哲学入門、哲学史といった言葉を標題にちりばめた書物が大きな棚一杯につまっているので、これを全部読まねば哲学入門を卒業できないのかと暗澹たる気持ちになったものでした。ナイーブだった自分がいっそ憐れに感じられるような想い出です。さて、それから幾星霜を経て、なんの因果か今度は自分が哲学入門ふうの講義をしなければならないはめになって、はたと困ったのはテキストです。簡にして要を得、哲学のなんたるかを歴然と示しているような書物には、なかなか出会わないものです。ところが当時出版されたばかりの山本先生のこの書物を一読して、これこそはそれであると確信しました。この書物はもとは放送大学の教科書として書かれたものであり、全体として15章から成っていますが、いずれの章において取り上げられた論題、それに対する扱い方も、稀代の哲学的な力量の持主が長年月をかけて考え抜いて得た内容を、平明なことこれ以上はありえないような論述に盛ったものであると言えます。それぞれの論題について与えられている論点に賛成するにせよしないにせよ、哲学的な問題を考えるためにはどのような作業が要求されるかに関して、貴重この上も無い教示を得られることは確かであると思います。授業において学生諸君に対してこの書物の内容を解説するうちに、さりげなく語られた言葉が湛えている洞察の深みに気づかされるという体験をわたしは幾度となくもちました。(湯浅正彦)


『知と愛―ナルチスとゴルトムント―』
著者:ヘルマン・ヘッセ(新潮文庫)

「頭では理解できるが、どうも気持ちが許さない」とか、「気持ちは分かるが、どうも納得いかない」とか、日常の生活の中でよく、知性と感情とが対立することがありませんか。そういうとき、皆さんはどうしていますか。知性で感情を制御する人は理性的な人だと言って、よく世間的には評価されますが、本当に理性的あることがそんなにも絶対的な人間生活の、強いて言えば、生きる上での価値基準なのでしょうか。確かに、感情に溺れて、事実を見失って、狂気に走る人は、周りの迷惑ですね。要は知性と感情の融和なのでしょうが、なかなかそれは、むずかしい。実は知性と感情、あるいはもっと強く言えば、知性と情念の対立は、哲学の伝統的な問題で、例えば、繊細なパスカルと鋭利なデカルトは激しく対立します。何と、フランスでは、ちょっと原題は違うのですが、「デカルトさんとパスカルくん」と言う劇まであるのです(興味のある人は、台本が翻訳されて、このタイトルで工作舎から出ています)。そこで、この伝統的な哲学問題を、哲学書ではなく、小説を通して、皆さんに考えてみてもらいたいと思い、上の本を挙げておきました。澄み渡った、しかしそれ故にこそ冷ややかな知性の人ナルチスは、知性を愛し、知性そのものである神を知解することに生涯をかかげ、ゴルトムントはありあまる情念でもって女性を愛し、ありあまるが故にか、次々に放蕩し、そこに己の生の充溢を見出します。果たして、この二人は和解できるのでしょうか? そして貴方は、ナルチスとゴルトムントのどちらの生き方を望みますか?(村上喜良)


『テアイテトス』
著者:プラトン(田中美知太郎訳、岩波文庫)

プラトン『テアイテトス』は、「知識とは何か」をテーマに、テアイテトスという若い青年とソクラテスとの対話が再現されています。第一部では「知識は感覚である」、第二部では「知識は真なる思いなしである」、第三部では「知識はロゴスを伴った真なる思いなしである」という三つの定義が紹介されます。一つ一つ、その定義が正しいのか、間違っているのか、議論が繰り広げられます。しかし、どの定義にも問題点が見つかり、「知識とは何か」という問いに答えを見出すことができないまま、この対話編は終わってしまうのです。そこから先は読者にゆだねられています。この否定的結末は、その後多くの哲学者の思索を刺激し、「知識とは何か」という問いの答えを出そうと、現代に至るまで論争が続いています。
ですから、これは簡単明瞭な書物ではありませんが、哲学のトピックが詰まっています。「万物の尺度は人間である」といったプロタゴラスの説が正しいのかどうか?「万物が流転する」なら正確なことばは使えないのではないか?知っていることについて間違えるのはなぜか?等々、皆さんを刺激する話題は豊富です。それから、教師は産婆で、真実を生み出すのは若者だという有名な「産婆術」のことが詳しく書かれているのもこの本です。とにかく読み応えのある本です。じっくりと時間をかけて読んでください。(田坂さつき)


『家出のすすめ』
著者:寺山修司(角川文庫)

この本に限らず、『幸福論』(角川文庫)など、寺山の書いたもの全般がおすすめです。寺山は、社会に家族に、恋人に友人に、彼に彼女にそして自分自身に、「疑問符」をたたきつけることを教えてくれます。「疑問符」をつけ続けることから、哲学が始まります。あるいは、それこそが、哲学の目的なのかもしれません。(板橋勇仁)